
●牧野愛博記者プロフィール●
1965年生まれ。91年朝日新聞入社。
瀬戸通信局、政治部、販売局、機動特派員兼国際報道部次長、全米民主主義基金客員研究員、ソウル支局長などを経て、2021年4 月より朝日新聞外交専門記者(朝鮮半島・日米関係担当)。
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2025年10月
モンゴルに学校を贈った北朝鮮

【出典】Yahoo地図
9月、モンゴル・ウランバートルで開かれたシンポジウムに出席した。その機会に、17年ぶりに約60キロ離れた郊外にあるアルタンブラク村を訪れた。ここには、北朝鮮が1961年に建設した学校がある。
17年前に訪れたときは草原の中を、車のGPS(全地球測位システム)を頼りにしながら訪れた。今回は2016年にできたという幹線道路を使った。人口3400人くらいの小さな村。ひときわ大きな建物で、すぐに場所がわかった。小中高校生の計537人が学んでいる。自宅が遠く離れた児童・学生や教師のための寮、100人規模で食事が一緒に摂れる食堂もある。
日本から持参したお菓子が威力を発揮したのか、1972年生まれというバート・エレデネ校長が親切に対応してくれた。
なぜ、この学校を北朝鮮が建設したのか。北朝鮮では朝鮮戦争(1950~1953年)当時、多くの子どもが両親を戦禍で失った。戦後復興に手間取った北朝鮮は孤児を一時期、東奥などの共産主義国家に預けた。モンゴルでもウランバートル市とアルタンブラク村で数百人の孤児を預かった。アルタンブラク村では村の外れに北朝鮮の孤児100人ほどが集団生活を送ったという。村の人々は親切に子どもたちの面倒をみたそうだ。
戦後復興が一段落し、孤児たちは北朝鮮に戻っていった。その後、1960年ごろに、北朝鮮が「子供たちの面倒をみてくれたお礼に」と学校を建設したのだという。
エレデネ校長の案内で学校の中を見学した。暖房用のラジエーター、寒さを防ぐための木製の2重窓枠、石造りの階段と手すりなどは1961年建設当時のままだという。旧玄関には初代校長の胸像が置いてあった。エレデネ校長は「元々は、ここに金日成主席の胸像もありました。私もこの学校にいたころ、毎朝2人の胸像にお辞儀をしてから校内に入るのが習慣でした」と話す。当時の校長は児童・学生に「北朝鮮の国民のお金で作ってくれた学校です。皆さんへの贈り物として寄付してくれました」と教えたという。児童たちは、北朝鮮の大使館員が学校を訪れると、尊敬した態度で迎えていたという。
「なぜ、今は胸像がないのですか」と聞くと、こういう話だった。1990年代初めに、北朝鮮大使館が金日成の胸像を持ち去った。当時、韓国がモンゴルと国交を結んだ直後で、外交的な抗議という意味が込められていた。校長は「あまり大きな声では言えないのですが」と言って、もう一つの理由も教えてくれた。児童・学生の一人が、いたずらで、金日成の胸像の胸のあたりに、釘で心臓を描いたのだという。それが「不敬」にあたるということだったらしい。
2階には「金日成教室」があった。そこには金日成の肖像画が掲げられていた。北朝鮮はその後、経済難に陥り、学校の面倒もあまりみられなくなった。2000年にモンゴルにいた北朝鮮労働者300人が1カ月余り、学生が夏休みでいない時を利用して大規模修理をしてくれたのが最後だったという。それでも、この金日成教室だけは、今でも修理の予算を出してくれているそうだ。
金日成は生前、2度ほどウランバートルを訪れた。校長室には、モンゴルの児童・学生に囲まれて幸せそうな表情を浮かべた金日成の写真が飾ってあった。
朝日新聞社 牧野愛博(よしひろ)





















朝日新聞取材裏話2025年11月


