●牧野愛博記者プロフィール●
1965年生まれ。91年朝日新聞入社。
瀬戸通信局、政治部、販売局、機動特派員兼国際報道部次長、全米民主主義基金客員研究員、ソウル支局長などを経て、2021年4 月より朝日新聞外交専門記者(朝鮮半島・日米関係担当)。
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2025年1月
戒厳令の夜
2024年から25年にかけ、ソウルで過ごした。24年12月3日午後10時半ごろに発表された戒厳令の取材だった。面会した知人たちは、それぞれ、「戒厳令の夜」について語ってくれた。
盧武鉉政権(2008~13年)で閣僚を務めた知人は、シャワーを浴びていた。居間にいた奥さんが「ヨボ(あなた)、戒厳令!」と叫んだ。知人は「カッチャ(ウソの)ニュースだ。騙されるな」と言い返した。日本に勤務した経験がある元外交官の知人は、ベッドで本を読んでいた。脇に置いたスマホが騒がしく明滅した。高校の同窓生たちでつくるSNSのグループで「戒厳令」という言葉が飛び交っていた。冗談かと思ったが、何度も繰り返されるので、テレビをつけると、尹錫悦大統領が戒厳令を発表していたという。この知人は、「国会に行って抗議しなければ」と思ったが、奥さんが「危ないからやめてください」と言って強く止めたという。
驚いたのは国会議員たちも同じだった。与党の40代の女性議員は自宅近くのジムで運動し、サウナに入っていた。着替えようとしたら、スマホが激しく振動していた。党から所属議員や職員らに「すぐに集まれ」という非常呼集がかかっていた。慌てて国会議事堂に向かうと、すでに警察官らが入り口を封鎖していた。議事堂の入り口はあちこちが封鎖され、仕方なく、議事堂近くの党本部に向かった。与党の別の40代の男性議員は運よく、議事堂内部に入ることができた。議事堂内部の院内代表室で待機していると、ゴツゴツという音が窓の方から聞こえた。窓の外をのぞくと、こちらをのぞき込んでいる人がいた。ヘルメット姿の兵士だった。午前零時半過ぎ、本会議場に向かおうとすると、外の廊下は国会に入り込んだ兵士たちであふれていた。男性議員は「兵士たちは何もしゃべらず、暴行するそぶりも見せなかったが、気圧されてそれ以上、前に進めなかった」と語る。
混乱のなか、午前1時ごろ、戒厳令を解除する決議が国会本会議場で通った。兵士たちは午前1時半ごろから撤収を始めた。そこで、知人たちも安心してベッドに入ったという。中には午前4時過ぎに、尹大統領が戒厳令を解除することを発表するまで、不安でテレビを見ていた知人もいた。
戒厳令が前回出たのは、1979年10月の朴正煕大統領(当時)の暗殺事件にまでさかのぼる。当時はまだまだ社会が不安定で、直前には慶尚道の釜山と馬山を中心に「釜馬民主抗争」と呼ばれる大規模な群衆デモが発生していた。1979年当時の雰囲気について、知人の一人は「朴大統領の死をきっかけに、社会が混乱する可能性が十分にあった。戒厳令は仕方のないことだと思った」と語る。
あれから45年以上が過ぎ、韓国は成熟した民主国家になった。市民たちは秩序正しい生活を送っていたからこそ、突然の「戒厳令」に驚いた。韓国は憲法第77条に戒厳令に関する規定を残しているが、これは北朝鮮と対峙する準戦時国家だからという事情がある。
立法府を制圧しようとして戒厳令を出した尹錫悦大統領の責任は重く、国会は尹氏に対する弾劾訴追案を可決した。知人の一人によれば、約500年続いた朝鮮王朝時代、弾劾の名のもとに臣民が問題のある王を追放するなどした例が6千回もあるそうだ。弾劾は、一種の朝鮮式民主主義の伝統なのかもしれない。
朝日新聞社 牧野愛博(よしひろ)