●牧野愛博記者プロフィール●
1965年生まれ。91年朝日新聞入社。
瀬戸通信局、政治部、販売局、機動特派員兼国際報道部次長、全米民主主義基金客員研究員、ソウル支局長などを経て、2021年4 月より朝日新聞外交専門記者(朝鮮半島・日米関係担当)。
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2022年5月
沖縄とウクライナ
4月、取材で沖縄本島に出張した。ロシアによるウクライナ侵攻では、一般市民の被害が大勢出ている。沖縄でも77年前の1945年に沖縄戦という大きな悲劇に見舞われた。そして、最近では台湾有事の可能性も指摘されている。77年前と今と未来をつなげて考えてみたいと思っての出張だった。
沖縄戦では軍人軍属と民間人がそれぞれ約9万4千人ずつ亡くなっている。沖縄県の出身者だけでみると12万以上の方が犠牲になった。沖縄戦で一般市民の被害を大きくしたのが、沖縄の守備隊である日本陸軍第32軍の首里から南方への後退だった。米軍は45年4月1日に沖縄本島、首里(那覇)より北にある嘉手納に上陸した。第32軍は首里城の地下壕に司令部を構え、米軍の南下を一日でも遅らせようとした。
その間、大勢の市民が首里から南方の地域に避難していた。当時の沖縄の人口は約59万人。1944年7月の閣議で沖縄・奄美諸島の市民の島外引き上げを決定。60歳以上、15歳未満の人や婦女子ら10万人を島外に出すことになったが、対馬丸事件など海上輸送の危険性や家族や仕事を捨てて去りたくない市民感情もあり、結局島外に出たのは8万人にとどまった。米軍上陸前には沖縄本島北部への疎開を進めたが、結局逃れられたのは8万人程度だった。島外にも島北部にも逃れられなかった大勢の人が南にあるガマと呼ばれる自然壕などに避難していた。
ただ、5月末になり、首里陥落が現実味を帯びてくると、32軍司令部は首里の地下壕を出て、喜屋武半島への後退を始めた。首里を最終防衛戦にしないことで、一日でも長く戦いを続けようという狙いがあった。ただ、当初の作戦構想になかった首里後退を始めたため、軍の指揮系統は混乱した。沖縄南部が戦場になって「鉄の暴風雨」が吹き荒れ、そこに避難していた市民に大勢の死傷者が出た。後退した日本軍兵士によってガマを追い出された市民もいた。第32軍の牛島満司令官は6月19日に指揮を打ち切り、23日に長勇参謀長らと南部・摩文仁で自決した。
首里から摩文仁までの道のりをたどりながら、様々なことを考えた。首里撤退がなければ大勢の犠牲者が出ることを防げた.自衛隊の戦史研究でも「牛島司令官は首里を枕に討ち死にすべきだった。そうすれば、沖縄でこれほど自衛隊や米軍に対する感情が悪化しなかった」という意見が出るという。一方、「それは現代だから言えること。当時は鬼畜米英が叫ばれ、米国は日本を滅ぼしてしまうと考えられていた。本土決戦までの時間を一日でも長く稼ごうと思えば、牛島司令官の判断は仕方なかった」という人もいる。責任を牛島司令官だけに負わせるのは酷だろう。沖縄戦までに十分な疎開ができなかった責任や、そもそも沖縄戦を招いたことへの責任もある。
沖縄戦を経験したお年寄りたちは、ウクライナの地下鉄などに身を寄せる市民の姿をニュースで見て、「ガマに隠れていた自分たちと同じだ」と語るという。77年前の教訓を生かさなければ、悲劇がまた繰り返されることになる。
(朝日新聞社 牧野愛博)